源
関東大震災の後たどり着いた
創業の地
能登から東京、そして鯖江へ
私の祖父、初代・古谷伍一は、石川県能登の出身。当時は「口減らし」という言葉が生きていた時代で、伍一が奉公に出されたのが東京のパン屋「木村屋」でした。上京し、パンづくりに励んでいた1923(大正12)年、関東大震災に遭遇します。東京は壊滅的な被害を受け、奉公先を失った伍一でしたが、彼には故郷の能登に帰るという選択肢はなかったようです。たぶん、生家に戻ることへの遠慮があったからだと思います。その代わりに頼ったのが、福井県鯖江市にあった帝国陸軍歩兵第三十六連隊で憲兵として勤務していた兄でした。行李ひとこり抱えて東京を後にした伍一は、兄を頼って鯖江に来ました。それがヨーロッパン キムラヤのはじまり、今日に続く物語の幕開けとなりました。
「ハイカラ」の光を灯す
鯖江に来た伍一は、兄嫁の妹と結婚しその後パン屋を開きました。当時の福井では、パンそのものが珍しい食べ物。伍一が東京から持ち帰った「あんぱん」や「玉子パン」は、「ハイカラ」そのもの。東京仕込みのパンを売る店は、地元の人々には「ハイカラな店」と映ったようです。
伍一は自分が焼くパンだけでなく、仕入の菓子やチョコレートなども扱っていたようです。戦時中には、兄の軍へのつながりから、軍の糧秣として「乾パン」も製造し納めていました。「日本一堅い」と言われる軍隊堅麵麭は、今も当時と同じ製法でつくっており、私たちの原点のひとつともいえる商品として受け継いでいます。
挑
世界を旅し、
本場の味に出会う
パンのあるところならどこへでも
父である2代目・欽一は、とにかくアグレッシブな人でした。1932(昭和7)年生まれ、戦中戦後の物資の欠乏した幼少期を経験した反動からか、長じてからは美食家として多くの情熱を費やしました。好奇心も強く、新しいもの好き。家業のパンにもその姿勢を貫き、「パンのあるところならどこへでも行く」と、世界中を飛び回りました。アメリカ、フランス、ドイツ…現地の食文化を肌で感じ、それを福井へ持ち帰りました。フランスパンの神様と呼ばれたレイモン・カルヴェル先生(1913~2005)から直接教えを受けたり、ドイツの製パン学校でドイツのパンづくりを習得するなど、とにかくアグレッシブに活動を続けました。それを鯖江でつくり、店に置く。当時の福井では見たこともないような本場のパンを次々に紹介していったのです。
まだフランスパンが「硬くて食べられない」と言われていた時代でしたから、欽一は店で焼いたフランスパンを抱え、夜な夜な「営業」と称して福井の飲み屋街に足を運びました。「おつまみにして食べてみてくれ」と、食べ方から教えながら本場の「パン文化」を福井に根づかせようとしたのでした。
「大福あんぱん」の誕生
今では当店の代表商品となっている「大福あんぱん」を発案したのも欽一でした。ある日、友人の母親から「パリに住んでいる息子に大福を届けてほしい」と頼まれたことが、誕生のきっかけでした。そのままでは硬くなってしまう大福を、どうすれば美味しく届けられるか。試行錯誤した父は、フランスでは「幸せの象徴」とされているブリオッシュの生地で大福を丸ごと包む、というアイデアを思いつきました。パリの友人を驚かせ感動させたことは言うまでもありません。
「夢や希望をパンの中に包み込む」――そんな思いがそのまま形になったような大福あんぱんは、誕生から40年以上時間が経ちましたが、今も当店の看板商品として、多くのお客さまに愛されています。
「ヨーロッパン キムラヤ」へ
店名を「ヨーロッパン キムラヤ」に変えたのも、その頃のこと。北陸自動車道ができて、関西や中京の大手パンメーカーが2~3時間で福井までパンを運んで来るようになったのです。それまで地域で作ったパンを地域で売っていた時代は、終わりを告げようとしていました。
そのとき欽一がとった選択は、それら大手のパンメーカーとの「違い」をはっきりと示すことでした。「うちはヨーロッパのパンを提供する店だ」と宣言し、大量生産のパンとは一線を画す。その姿勢を示すために、店名を「木村屋」から「ヨーロッパン キムラヤ」に改め、昭和55年に株式会社ヨーロッパン・キムラヤが誕生しました。
危機感からの決断でしたが、今から振り返ると、これが今日へと続く大きな決断になったのではないかと思います。
醸
美味しさの秘密の方へ
発酵学と、パンの工業化から学んだこと
こうした祖父・伍一と父・欽一のもとで、おのずから家業を継ぐことを当然のように育った私は、大学進学にあたって「発酵」の研究を志しました。宇都宮大学に進学した私は、農学部で酵母や乳酸菌の働きを学び、それら様々な「菌」の極めて複雑な働きによって成り立っている発酵の魔訶不思議な世界を学びました。大学卒業後は家業を継ぐに先立って製パン機械を製造するメーカーに就職。そこではパンを大量生産する技術とその「功罪」もまたこの目で見てきました。これらの知識と経験が、今の私のパンづくりに直結しています。
パンは、小麦粉や塩やパン酵母などでパン生地をつくり、そこに「種」を加え発酵させ焼き上げます。この「種」が、パンの味を決める源です。酵母や乳酸菌やその他さまざまな菌からなる独自の「種」。その複雑な風味こそが、工場で大量生産されるパンとは決定的に異なる部分です。
昔のパン職人はこの「種」を枕元に置いて寝たと言います。私の父も、かつて店が火事になった際、真っ先に火の中に飛び込んで種を取り出してきたほどです。
あえて手間のかかる道へ
1990年代には本場フランスでも「フランスのパンがまずくなった」という話が聞こえてくるようになってきました。労働条件の変化や効率化の波の中で、多量のパン酵母の使用や乳化剤の乱用により味が落ち続けていたのです。そこで「50年に一人の天才」と称されるパン職人エリック・カイザー氏ら、志あるパン職人たちが「1800年代以前の伝統的な製法でのパン作りに戻す」という動きを起こしました。
こうした動きを見ていた2代目父・欽一は、「この流れは必ず日本にも来る」と確信し、カイザー氏が作り上げた「ルヴァン フェルメント」を購入。私は、父が伝えてきた「種」に加えて、新たにルヴァンリキッドを製造。父が他界して以来25年にわたって、あえて発酵に時間を要する手間のかかる「自家製発酵種」を使ったパンづくりの道を選び、当店ならではの独自の風味を守り続けてきました。
軸
流行に流されない
「作ってくれ」と言われると作らない
うちには家訓があるわけでも、正式な社是があるわけでもない。けれど変わらない姿勢があって、それは「流行を追わない」ということ。
材料を届けてくれるメーカーの担当者が「今これが流行っています、作りませんか」と持ってくることはよくあるのですが、私はほとんど反応しない。「作ってくれ」と言われると、まず作らない(笑)ひねくれ者と言われればそうかもしれませんが、自分が本当に美味しいと思えるものだけを作りたいわけです。
食パンブームに背を向けて
数年前に食パンブームがありましたよね。この地域にも高級食パンの店が次々とオープンしました。けれどほとんど影響は受けませんでした。流行が来ても、私どものお客さまはそのまま変わらずに来てくださっていました。これは流行を追わないというスタイルを貫いてきたことへの、お客さまからの答えだと思います。
流行は必ず廃れる。私が大切にしたいのは「美味しさの根拠」なんですね。「心を込めて」という言葉だけでなく、科学的な裏付けももってうちだけの味を作る。長い時間をかけて積み重ねた毎日のパンづくりを通じた信頼の積み重ね。それが何よりも大事なんじゃないかと思っています。
継続を生む、居心地の良い職場
いま私たちの従業員は15名ほど。みんな長く勤めてくれています。先日退職した人は75歳でした。「来年も働いていいですか?」と聞かれたので「ぜひ頼みますよ!」と応えたのですが、結局ご本人から「体力の限界です」と身を引かれたのですが、長きにわたって元気に働いてくださいました。長く働き続けてくれる人がいることが、パンの品質を守り続けることにつながりますし、時間をかけて培ってきた技術と味は、時間をかけないと受け継いでいくことができないと思います。
だから、居心地の良い職場をつくりたい。
パンっていうのは、つくる人の状態がそのまま味に出る。穏やかな空気の中で、菌たちが健やかに育つ。そんな環境を守ることも、私の仕事だと思っているんです。
結
鯖江とパリと東京と
パリコレクションとあんぱん
3代目の私の時代になってから、「大福あんぱん」をパリへ届ける活動が始まりました。始動の2010(平成22)年には、パリ国際農業見本市(SIA)へ大福あんぱんを出品。ジャパンパビリオンのジャパンデーにてあんぱんのプレゼンテーションをして、大きな反響をいただきました。
副社長である妻の聖津子が2代目の父と親交のあった故三宅一生氏に手紙を書き、おもいを伝え、15年以上にわたって定期的に渡仏し、パリコレクションに参加するデザイナーや現地で活躍する人々へ大福あんぱんを差し入れる活動を続けています。パリの人たちは最初は「あんぱんなんて知らない」という反応でしたが、2代目・欽一が友人に大福あんぱんを届けた物語とともにお届けし、理解を得ながら活動は徐々に定着していきました。
のれんを繋ぎ直す
大福あんぱんは、パリの活動と並行して、福井県のアンテナショップ「ふくい食の國291」(現在は銀座)でも取り扱いが始まり、東京でも話題になり始めました。この頃、かねてより懸案していた銀座木村屋総本店との「のれん」の問題も一気に解決していきました。というのは、祖父・伍一は木村屋で丁稚奉公をしておりましたが、関東大震災の混乱の中で、正式なのれん分け証明は曖昧なままになっていたからです。
大福あんぱんの活動を機に、木村屋直系の方を訪ねました。創業の経緯やこれまでの歴史、そしてパンづくりの思いをお伝えし、正式なのれん分け証明をいただけることになりました。改めて当店のルーツが公に認められたことに安堵するとともに、次代に手渡せる財産になるとうれしく思っています。
繋
次の100年へと思いを繋ぐ
繋がる縁
鯖江、パリ、東京へとつながっていった不思議なご縁は、銀座木村屋總本店、そして世界的に活躍するエリック・カイザー氏およびベーカリー「メゾンカイザー」との交流へとつながっています。私の息子も、東京の大学を卒業後、銀座木村屋總本店で修行させていただき、今は鯖江に戻り弊社で一緒に働いています。
奥深いパンづくりの道
パンづくりの面白さですか? それは、なかなか思い通りにならないこと。けっして満足できず、常に改良したくなる。それがおもしろいんです。パンづくりの奥深さは、100年かけても尽きることがないのかもしれません。
自分の信じる美味しさを求めて
店をどう大きくするかということは、私はあまり考えない。それよりも目の届く範囲で、本当に美味しいと思えるパンを作り続け、お客さまに届けること。その積み重ねの先に、次の100年があると思っています。
けれども、規模を追いかけるより誠実さを守る。流行に乗るより、自分の信じる美味しさを追求する。その姿勢だけは、変わらずに受け継いでいってほしいと思っています。
この街だからつくれるパンがある
鯖江は昔から眼鏡や繊維産業が盛んな街。ヨーロッパへの渡航歴がある方が多く、当店のパンを見つけて「あの時のパンと同じ味だ」と喜んでくださる。この街だからこそ、私どものパンが受け入れられてきたんじゃないかと思うのです。
パンを通して健康でいてほしい。パンのある幸せを味わってほしい。それが願い。
この街で、この場所で、パンを作り続けていくよろこびとともに、次の100年に歩みを進められればと思っています。
Profile
古谷香住さん
1962(昭和37)年生まれ。宇都宮大学農学部農芸化学科卒業。発酵学を学ぶ。卒業後、製パン機械メーカーでサービスエンジニアとして従事。世界各地を巡る。1989(平成元)年に家業である株式会社ヨーロッパン・キムラヤに入社。2001(平成13)年に父・欽一の他界に伴い3代目代表取締役に就任。伝統の味を守りつつ、天然酵母を駆使した独自のパンづくりを追求。

